昭和47年10月30日 朝の御理解



 御理解 第3節
 『天地金乃神と申す事は天地の間に氏子居っておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷 皆神の地所、その訳知らず方角日柄ばかりを見て無礼致し、前々の巡り合わせで難を受け居る、今盤生神金光大神を差向け願う氏子におかげを授け理解申して聞かせ末々まで繁盛いたす事、氏子ありての神神ありての氏子上下立つ様に致す。』

 上下立つ様に致す、神様も人間氏子も、いわゆる愛よかけよで助かり合うて行けれる様な道を、此の度金光大神を差し向けて、そう言うおかげを頂かせると言う事ですね。金光大神のその為には、願う氏子におかげを授けて、そして理解申して聞かせる、その理解申して聞かせると言われるその、理解を私共が分かる、いわゆる理解する、その理解する事によって、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つ様に致すと言う様な、おかげに成って来る訳です。
 ですからその理解申して聞かすと言う、其処の所の理解が出来ないと、いわゆる神様に喜んで頂け私共も喜び合えれるおかげと言う事になって来ない、と言う事なんですね、此処は。ですから此の御教を本当に分かり理解させて頂いたら、いよいよ金光教の信心の素晴らしさと同時に、その信心が身に付いて行く、精進が楽しみをもって、いよいよそれをどう言う所に直面しましても、楽しゅう信心を身に付けて行く事が出来ると言う、程しの御理解なんですね。
 所が願う氏子におかげを授けと仰るおかげは頂いても、理解申して下さっても、その理解を理解しないでおる所に信心が進まなかったり、信心が中途で消えたりする訳です。ですから此処ん所を取り次ぎ者として、まず私自身が本当に分からなければならないと言う事と同時に、又私自身が本当に其処ん所を分かって、それを皆さんに聞いて頂くと言うか、本当に皆さんの物にしていて頂く所迄の、教導が祈りと共になされなければならないと言う、まあ大変な御教えです。
 取り次ぎ者自身も此処ん所を、分からしてもらう事によって金光教の信心の素晴らしい事、同時におかげとしては神も助かり氏子も立ち行くと言う、いわば上下立つ様な、喜ばしおかげの実現と言うものがです、なされると言う程しのおかげ。ですから其処ん所の理解申して聞かせと仰る、その理解申して下さる事を、私共が理解しなかったら、只願う氏子におかげを授けとおっしゃる、只おかげの所だけでしまえます、そんならそのおかげと言うのは私どもがおかげと感ずる事.

 感じない事色々ありますから、おかげと感じきれないと時になると、もう信心はそこから下り坂になって来るです、いやそれから消えて無く成る様な事になるのです。ですから此処の所をです本当に良くよく理解させてもらう、分からせてもらう事によると、例えば問題が問題にならない、有難い言わば楽しい信心が続けられて、いよいよ限り無く神様に喜んで頂けれる信心、同時に私共も喜びに浸って行けれる程しの信心が有る。今日は此処ん所に焦点を置いて聞いてもらいたい。ね。
 あれ程分かっておる様にあって、あれ程信心が出来ている様にあって、信心がストッと信心を落として行く人達があったり、信心を止めて行ったりする人達が有ると言う事、もうそれこそ、根のない浮き草の様な信者ばかりがどんなに沢山居っても、是は神様の御安心と言う事にならない。是は取り次ぎ者としてどうしても其処ん所を、いわば大地に根を下ろした様な信心を皆さん一人一人にして頂くと言う事です、そうしなければおられない程しの信心を皆さんに分かってもらうと。
 言う事に取り次ぎ者の言うなら全生命が、掛けられなければならない程しの御教だと思うですね。まあほとんどと言うて良いのじゃないでしょうか、願う氏子におかげを授けと言う其処ん所には、まあ皆が、あらたかな神様だと感じるのでありますけれども、只それだけではね、それだけでは大地に根を下ろした様な信心にはならない、いよいよ大地に根を下ろした様な信心を頂く、又はそれを渡すと言う実力と言う物をですね、私自身が持たなければいけんのですけれども。
 まあその点本当に相済まん事ですけれども、是だけ一生懸命その事は理解申して聞かせてあるのですけれども、それを渡しておる積りだけれども、皆さんの方でそれを受け止めていない、頂き止めていないと言う事実をね見る時です。是はどう言う様な信心させて頂いたら良いだろうかと、もう改めて思わせてもらう、感じさせてもらう。勿論是は神様のおかげによらなければならなん事ですけれども、その神様をそう言う絶対の所迄、お働き下さる神様を頂く、又は頂かせる。
 又は頂くと言う事がです、どう言う様な信心を私自身させて頂いたなら、此処ん所のおかげを頂いてもろうて、神様が喜んで下さる上下立つ様なおかげになるだろうかと、今日はその事をしきりに思うておった。思うておった、思うておったら此処ん所を頂いた、上下立つ様に致すと仰る、此処ん所を頂いた。その原因はどう言う事かと言うと、願う氏子におかげを授け理解申し聞かせて確かに、おるのだけれども、理解申し聞かせておるのだけれども、その理解を只自分の血に肉にしてなかった。
 言うなら血に肉にさせきっていなかったと言う事に原因はあるのです。それだけの事。私の話を十年二十年聞いて下さる、言うなら全部が理解申して聞かせておるのである。そして皆さんが広大なおかげを頂きました、とても不思議なおかげを頂きました、と言うのは願う氏子におかげを授けておるのである。成程神様の一分一里間違いのない働きには恐れいりますと、合楽の人は殆ど言う。
 と言う程しのおかげには触れておるのだけれども、今度は一分一里間違いの無いではなくて、大変な間違いの様に言うならば、おかげをおかげと感じきらない、おかげと感じきらない所から信心が疎かになる。疎かになるどころじゃない信心が消えて来る。本当に二十年間言うならば、理解申して聞かせて来たけれど、果たしてその理解を血に肉にしておる人が幾人あるだろうかと思うたら、何か神様に相済まんと言うか何か知らんけれども、悲しゆうなって来るんです。
 そこでいくら悲しゅうなった所でです、それをそんなら受けきらなかった方に、まあだあんたはこげな所も分かっとらんじゃったのと、いかに言った所で、仕方がない、結局私自身がね、私自身が本当に与えきらなかったのであるから、私自身がお詫びをするより他にはないと言う事になっております。今日皆さんが有難いおかげを頂いて有難い、有難い御理解を頂いて有難いと言うけれども、果たしてどこ迄それを血に肉にしとるかと言う事。ですから其処の所をなら本当に分からせて頂くと言う事。
 そこん所をですこりゃもうどう言う事があっても、どう言う場合であっても動かす事の出来ない事実をです、お互いが把握しておかなければならないと言う所が、此の三節の初めの所になって来るのです『天地金乃神と申す事は、天地の間に、氏子居っておかげ知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、神の地所、其の理知らず、方角日柄ばかり見て無礼致し、前々のめぐり合わせで難を受けおる』と言う所迄はです、本当にそうだと分かったが最後です、もう金光さまの信心は動かされないはずです大体動かないです。
 此処が本当に分かったら前半の所が。ね。後半の所がです例えば、天地金乃神さまの氏子に掛けられる願いであり、そして親と子共々に助かりとうて行こうではないかと言う所なんです。その為には是はもう絶対のもの、天地金乃神と申す事はからです、前々の巡りで難を受け居ると言う所迄の信心、是がね分かり信じられる時です、金光さまの信心がどの様な場合であっても、微動だもしない事になって来るでしょう。
 ですから此処ん所だけはどうしてもその、こうやって聞いたり説明を聞いただけではね、駄目だと言う事、もう此処ん所には私共の、思い違い考え違いを根本的に治して下さろうとしておる、言うなら前々の巡りで難を受けおると仰る、もう難を受けんですむ程しの生き方そう言う道をです、此処で教ようとしておられる。日柄方位ばかり見てとか、神仏の宮寺氏子の家屋敷皆神様の地所、神様の御物である。
 一切が神様の御物である、それは何々神社何々寺と言う様な、宮寺の家、氏子の家屋敷は勿論の事、と言う事は全ての事と言う事なんです。いや是は天満宮様のお屋敷じゃけん、是は何々寺の地所であると、まあ例えばそれを神さま仏さまを、まあいっちょ超越した物、ね。此処の所は、そう言う一切合切をひっくるめて、天地金乃神様の地所と、神様のおん物と言う是は地所だけではない全てがそうだと。
 日柄方位ばかり見てと言う事は私共のいわゆる思い違い、いわゆる考え違い、天地の中にそれこそ指一本押すだけても、神様の御恩恵に浴していないと言う所はないのだ、降ろうが照ろうが一切神様の御神意の中に有る事なのだ。今日は何の日とか、今日はなんの日とかとこう言う様な事でもです、そこに今日は良い日の悪い日の方角がよいの悪いのと言う様な事のあろうはずがない事実をね、此処ではいわば力説しておられる訳です。教祖金光大神を通して。
 だからそれが成程だと合点が行く、成程だと自分の物にならせて頂けた時にです、その天地の親神様のお心に添い奉らにゃ、おられないと言うか、その親神様のお心に添わしてもらわなければ、おられないと言う所からです、信心の言うならば確立ですね、お道の信心の確立、金光教の信心の確立が出来るです。ですから例えば信心を疎かにしたり信心を止めたりする、もうそれは何十年参ってどんなに分かった様にしておっても、此処ん所が分かっていないと言う事になるのです。
 だから此処ん所を分からせて頂く為に、皆さんが本気で信心せねばならんと言う事はです、此処ん所を分かる事の為に、一つ成程、日柄も方角も言わんで済むだけの実力を受けなければならないし、又一切が神様の御物と言う生き方、いわゆる本当の事、そこからです、神様のお働きおかげに浴する事の出来れる信心。昨日敬神会でした、私のお話をしばらく聞いて頂いたんですけれども、あちらのお便所にやらして頂いたら、お便所の下駄が三足置いてあるのがもう一杯乱れておった。
 だから私はそれを用を足してから、それを綺麗に揃えておる時に頂いた事なんですけれども、『ぬぐ時を大事にしなければならない』使用し終わって脱ぐ時を大事にする。それが信心だとだから、又履く時には容易う楽に履ける、お互いがあわてて便所に堪え切れんで走って入る。走り込む下駄がもうあっちこっちしておる、はぁこうして揃えるだけでももうそこにきちっと下駄が揃えてあればです。
 もうスッとそれにつっかけて用をたす事が出来る、為にはお互いが各々脱ぐ時にそれを綺麗に揃えて置かなければならないと。この世でを大事にしておかなければならない、だからあの世では楽だと言う御理解でした この世で例えば乱れた生活、間違った生活をしておってです、あの世に極楽に行こうと言ったって、それは問屋がそうわ卸さないのだと。それは言うならお便所に行って脱ぐ時にちょっと手を添えて揃える位の事なんです、信心させて頂いて信心生活とはそんなものなんです、難しい事じゃ決してない。
 それを言うならば只楽な方えばかり心を動かし、又は心を汚し心を乱して安易な方えばかり走ろうとする、なる程上がる時でもパーツと下駄脱ぎ散らかし、上がる方が早い事は早い。そう言う生き方をしておってです、そんなら慌てて今度はあの世行きをする時に、さあどっこい楽な事になって来ないと理屈は同じだと、脱ぐ時を大事にしなければならない、だから履く時に何とはなしにきちっと揃えてある、その履物を履かして貰う時思わずなんとはなしに、合唱しなければおられない心が起こって来る。
 『誰じゃろうかひき散らけえて、ほんな』と言うてから不足を言いながら下駄を履かんならん、思いながら用をたさんならん、それは信心生活ではないのだと、信心生活と言うのは自分自身が脱ぐ時に綺麗に揃えて、だからそれを又履く人が言うなら合唱する様な心で、それこそスムーズに用をたす事が出来る様に、この世での、例えば下駄を揃える位の心がけを持って信心をさせて頂いておればです。いよいよあの世に合唱しながら行く事が出来るんだと。
 たったそれだけの事が実際に於いては、実証が出来ていない、実行が出来ていない所からです、今日私が言う前半の所、其処ん所の体験と言うものが生まれて来ないのである。信心の教えを行ずると言う事は、それは只ちょっと是は便所だけの事ではありませんよ、お玄関だって同じですよ、そんなら是は下駄だけの事じゃないですよ、夜やすむ時に着物ポーンと投げ散らかしてから、着とったその着物にお礼も言わずに、それで明日さあ羽織りは何処にあるか、袴は何処あるかと言わにゃならん。
 それをきちんと畳ませて頂いてそれこそ畳みながら、今日一日この着物にお世話になった事、この着物によって暑さ寒さを感じんですむ程しのおかげを頂いた事を、着物を畳みながらお礼を言うような心、だから明日のあさこの着物を着らして頂く時に、きちっと畳んであるのを見たら思わず合唱しなければおられない心が生まれて来るのです。一事が万事そう言う生活を信心生活と云うのだ。
 それをね本気でひとっつも実行してないんですから、そこに生まれて来る体験があるはずがないのです、なる程一切が神様の御ものであるなあ、なる程日柄も方位もこの世の中にはあるもんではないなあ、一切が神様の御恩恵、神様の心の中に有るのたと言う事をです、体験できない。そこに私共が例えば一分間違えると一分の開きが出来てくる、一寸間違がうたら一寸開きが出来てくる。
 それを私共は日々の信心生活の中から感じる事ができる。あっこれは自分の信心が今頃どうもおかしいぞと、体験と言うものは私は其処ん所が体験と思う。人間凡夫の事で御座いますから、何処にお粗末が御無礼が有るか分からんだから、其処ん所をお詫びすると言う事はです、そう言う間違っておった所に気付かせて頂いての、お詫びでなければならないと言う事。ですから完全と言う事は出来ないけれども、本当のお詫びがそこに出来るから言わば、詫びれば許してやりたい親心。
 と仰せられるから所謂された日々そこに、親の思い神様の思いを聞きながら、親の思いを感じさせて頂きながらの、信心生活が出来る様に成って来る。それを天地のリズムを聞きながらとも言う訳ですね此処では、それを実感させて頂きながら信心の稽古が出来て行くならばです、必ず氏子上下立つ様に致すと言うおかげになって来る、上下立つ様ないわゆる神様も喜んで頂き、私共も喜ばしてもらわなければおられない程しの、おかげの道がそこから開けて来るんです。
 此処の所の体得出来なくしてです、此処ん所の行じ、此処ん所の実行が出来なくしてです、金光様の御信心は解らない。氏子の家屋敷、みな神仏の宮寺、皆神の地所と、日柄方位ばかり見て無礼致しと言う所、まあこう言うその言葉の所だけを聞きますと、何でも無い様ですけれどもね、それが解ると云う事、それがそうだと分かると言う事は金光教の信心の確立なんです、だから大変な事なんですよ此処は。
 それにそんなら話を聞いて例えば理路整然と例えば、説明が出来る所ですから説明を致しましてもです分かっただけでなくて、自分が成程そうだと身をもって体験しなければです出来ない所。そこで今私が言う、そんなら便所にやらして頂く時にです、使う時よりも脱ぐ時を大事にすると言う生き方なんです。いわゆる教を本気で行ずる事は難しい事じゃないと、それにもう、まあ忙しさにかまけてしまってですね、もうそれこそ下駄はあっち向きこっち向きしとる様な上がり方する。
 脱ぎ方する、是は下駄だけの事ではない、一事が万事にそう言う生き方をしておってです、此処ん所が分かるはずがないです。天地が奏でて下さるリズムを聞き取る事は出来ない。それでは。そう言う信心生活をです、そんなら此処で沢山の人が御縁を頂いておかげを受けましたが、そう言う信心の、金光教の信心の確立が出来てない、私は今日本当にここん所解る事、自分が身を持って分かる事が金光教の信心の確立だと思うです、又ここん所は金光教の教祖しか説きえていない所です。
 ここん所が分かるとですね前前のめぐりで難をうけ居ると仰るが、そう言う事が分かったら、もう巡りを積まんで済む程しの、素晴らしい是は表現なんですからね。思い違い考え違いしておった事をここに正させてもろうて、そして正しただけでなくて分かっただけでなくて、それを実行に移すと言う事。成程天地金の神と申す事は、天地の間に氏子おっておかげを知らず、と言う所が分かって来るです。ね。
 金光教の信心の確立がですその様な体験の上から、例えば此の様な所を分からして貰う所からです上下立つ様致す、神様の願いは此処にあるです、氏子と共に助かり合って行きたい。それが神様の願いなんです。それには所謂真の信心をせよ、真の信心とは本当の事が分かると言う事だと、本当な事が分かって本当な事を、それは行ずる事なんだ。そんなら行ずると言う事は火の行、水の行と言った様な難しい事ではなくて、言うならば脱ぐ時を大事にする様な生き方なんです、ですから難しい事じゃないでしょうが。
 だから例えば便所の下駄、お玄関の下駄、そのひと言だけでも良いからです、行じてご覧なさい其処から何かが生まれて来る。教えを行ずる教えを守ると言う事はです、例えば御地内をみだりに怪我すなよと仰る、御地内をみだりに怪我さんどころか、御地内を清めると言う様な心掛けにならせて頂いたらです。もう誰だって出来る事なんです、それを行じようと言う気になったら。それを行じずしておいてです、只御理解は聞くだけ言うならば、願う氏子におかげを授けと仰る。
 そのおかげは頂いてはおるけれども、理解を申し聞かされてはおるけれどもそれを自分の物にせずしておいてです。此処には末末迄繁昌致す事、氏子ありての神、神ありての氏子と言う事はです、そう言う末末まで繁昌致す事をもう約束しておられるのです、そう言う信心がお互い出来る様になったら。そしてそう言う繁昌がです、そのまま氏子だけの喜びではなくて、神の喜びにも成って来ると言う事。氏子あっての神、神あっての氏子、上下立つように致すと言、此処ん所だけが神様の願いなんです。
 上下立つ様になりたい親と子が一緒に、お礼を言い合う様な世界を作りたい、いわゆる和賀心時代を創るとはそう言う様な事なんだ。それを私共がです、頂く為には只理解申して聞かせと仰るから理解申して聞かせてあるけれども、それを聞いただけではいけないて、行の上に表さなければ、行の上に表さなければ、御理解三節のいわゆる前半の所がです。それが自分の実感としてです感じとらせてもらえるね、いわゆる金光教の信心の確立と言う事になって来ない。
 その金光教の信心の確立が出来てない所に、信心を疎かにしたり信心を止めたりするのである。どれ程沢山の人が御神縁を頂いてもです、そこのお道の信心の確立と言うと事が出来なかったら、只枯木も山の賑わいと言うだけで、教会が賑わっておると言った様な事でね、もういよいよ相済まん事だなと今朝から私はそこを痛感させてもらう、上下立つ様に致すと言う神様の願いをです、本当にこの世に現して行く事の為にです、私共が本当の意味に於いて、お道の信心のまず確立を願わなければならない。
 絶対の物それには絶対の物をね、そうして頂く為にはです、いうなら下駄を揃える位な実行と言う、是は全ての事ですよ、そんなに難しい事じゃないて。教祖は酒を飲んじゃならんとか、肉は食べてはならんとかと言う様な難しい事は仰っていないと言う事、ね。ある宗教ではいわばお肉やら食べちゃいかん、戒律で厳しい、ある宗教ではお酒なんか飲んじゃいかん、中々言うならばその十戒の中の一つでしょうけれどもです、是はキリスト教のね。と言う厳しい事じゃない。
 何を食べても何を飲んでも良いと言う事は、もうそれこそ自由自在の事を許されておる訳です、金光教の信心は、けれども此処ん所だけは守って行けと言うもうそれは守ろうと思えば、実行しょうと思えば出来る事をです、私共がしない所から何時迄経っても金光教の信心の、所謂確立が出来んのではないだろうか、まあ私は其処ん所に今日はその原因と言うものを追求してみて、其処ん所に感じさせて頂いたんです。沢山の人のお取り次ぎさせて頂いた、おかげも渡して来た理解も申して聞かせてきた。
 けれどもそれが信心が消えて行ったり疎かになって行く事実をです。まあ今朝から本当に感じさせて頂いてですね、是はもういくら合楽教会なら、合楽教会にどんな御比礼が立つておると言うても、そう言う信者ばかりが沢山集まったって、それはもう本当に神様の心を安んじ奉る事にならないのだと、私は今日はしきりにそれを思うのです。本当に此処に御神縁を頂いておる人達が。
 本当の意味に於いての信心の確立を目指せて頂いて、行の上に表してもろうてです。末々迄も繁昌致す事と仰る、その基盤と言う物をですね、基礎と言う程しの物を作らせて頂く程しのおかげ。そして神様の願いであるところの上下立つように致す、上下立っていく程しのおかげを頂いていかなければならないと、言う事をね今日は聞いて頂きました。御理解三節と言えば本当にこれが自分の血に肉になった時にです、この御理解三節がいわゆる金光教の確立が出来たと言える事が出来たと思うですね。
   どうぞ。